山崎ナオコーラさん連載【未来の源氏物語】第1回「どうやって時代を超える?」♯1
*イラストも筆者
平安時代の昔から現代まで、多くの人に愛されてきた『源氏物語』。
しかし、古代日本の価値観を背景に書かれた物語は、身分、見た目や性別による偏見が描かれ、
多様性を重んじる時代の価値観から見ると違和感を覚えることもあるでしょう。
そんな『源氏物語』を今の視点で楽しむには? 新たな「読み」の可能性を考えます。
第1回
「どうやって時代を超える?」♯1
古典の研究者も、
本当に『源氏物語』を
読むことはできない
まずは言葉の話をしたいと思います。
人間は言葉というものに永遠の生を感じます。死んでも大丈夫だ、言葉があればずっと生きているのと同じことなのだから、と。
言葉は時代や場所と共にあるものですが、遠くまで届きます。死んだり消えたりすることがありません。
『源氏物語』は、約千年前に制作されました。紫式部がひとりで書いたと言われています。
原文は、その時代の、京都辺りで使われていた言葉を使って綴られていて、現代の読者である私たちは、するりと読むわけにはいきません。
でも、それだって言葉には違いありませんから、読み解くことは必ずできます。
たとえ自分が親しんでいる言葉ではなくても、それが言葉である限りは、遥か彼方まで届くのです。
それを発した者と受け取る者は、人間同士として共感できます。
現代語訳をしている人も、外国語に訳している人もいますし、媒介者を通して楽しむ方法もたくさんあります。
言葉は、ひとりの人間が作り出したものではありません。
ホモサピエンスが社会を形成し始めたとき、自然と生まれたものでした。
その後も、誰かひとりがコントロールして育てたわけではなく、多くの人間がなんとなく使用したことで発展しました。文法は後付けで、決して「絶対的なルール」ではありません。
間違った言葉遣いなんてありません。辞書には、使用経緯を研究した際に見つかった「法則的なもの」が載っているだけです。
言葉は、みんなが自由に使って、どんどん研ぎ澄まされ、今も変化し続けています。研ぎ澄まされずに休んでいる時代はこれまでに一度もありませんでした。
つまり、言葉は作者の創作物ではありません。芸術作品と聞くと、「作者がひとりっきりでゼロから産んだものだ」と、つい考えそうになりますが、言葉はもとから社会に漂っていて、作者のコントロールが及ばないものなのです。
作中の言葉は作者が生きていた時代までの様々な人間が関わって作り上げたものであり、また、作者の言語センスは作者の周りの家族や友人たちが研ぎ澄ませたものです。
だから、文学作品を「個人がゼロから作り出した」と捉えるのはおかしいことです。その時代のその場所から生まれ、多くの人が関わって作り上げたのです。
きっと、『源氏物語』の一番良い読者は、平安時代に、京都辺りに住んでいたでしょう。
紫式部と同じ時代に近い場所で生活していた読者は、紫式部の言語センスと似た感覚で言葉を咀嚼(そしゃく)し、深く理解したに違いありません。
その言葉が日常の会話の中でどんな感じで使われているか、その言葉が示す生活用品がどれくらいの重さなのか、身体感覚で味わうことができたはずです。
千年後を生きる私たち読者は、そうはいきません。
言葉の意味は理解できても、紫式部とは違う感覚でその言葉を楽しみます。
「自分たちはこんなまだるっこしい会話はしないけれども、想像はできるなあ。本質は同じだ。人間は変わらないんだなあ」などと考えます。
このエッセイは「茶のあるくらし」をビジュアルに提案する月刊誌『なごみ』2021年1月号に掲載されたものです。
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